ときのうたにて、橋本久仁彦氏を招いて1年を通して円坐守人としての稽古をしていただきます。
以下、橋本氏及びときのうたの長江よりご挨拶・ご案内になります。
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「円坐守人稲妻稽古~円坐という詩・円坐守人という生き方」を岐阜県恵那(美濃)の中野方で通年開催いたします。
集落の一番高所にある農家民宿“ときのうた”に参上し、春の中野方の緑の谷を見晴らしつつ道行きをともにいたします。
中野方の土地は、“ときのうた”ご主人の長江賢太郎氏がご家族とともに中野方に移り住もうとした時に、
町の不動産屋さんが「あそこはもう死んでますよ」と言ったという過疎地域です。
僕はその言葉を聞いて反発心を起こし、「もう死んでる」という価値観をひっくり返してみたいなと思いました。
そして、過疎でも不便でも関係なく遠方から人が来て下さるような仕事をしたいと思いました。
ここを終の棲家と定めた長江氏とともに、あえてここで僕の今一番したい仕事をしようと決め、
去年「中野方聞道」の教室を立ち上げました。
今、世界ではコロナウィルスが流行って人が「人の集まり」を恐れています。
空気のきれいな中野方には、長江一家と村の衆と時折姿を見せるカモシカと愛犬ハッピーがいるだけです。
古民家“ときのうた”には谷からの風が吹き込んで、風通しと日差しだけはかけ流しの温泉みたいにあります。
この非常時に、そしてこの非常時だからこそ、中野方で円坐道(みち)をご一緒できるということを幸せに思っています。
ひとりの円坐稽古人として我々とともに坐ってくださる“けんけん”こと長江賢太郎氏からご挨拶のことばを頂いています。
「それぞれの生きし姿を旗印に個が集まる。
その個が円坐を組むとき、結合と分裂、跳躍と屈伸、融合と融解、前進と後退、といった胎動を繰り返しつつ、
次第にひとつの有機体としての生き物のように動き始める。
そしてピースとなって動き始めた個としての細胞は、有機的生命体から生きるエネルギーのようなものを掬い取っているように思える。
僕にはそのダイナミズムがとても面白いし、集合体としての生命の躍動に心惹かれる。
円坐守人は、その場その時にしか生まれ得ない唯一無二の生命体を取り上げる助産師といったところだろうか?
助産師があってこそ安心してイキイキとした産声をあげられる。
今回はそんな守人としての“働き”を我が身に沁み込ませたいと願い、橋本久仁彦氏に稽古をお願いしました。
志を共にしていただける方々のご参集を、心よりお待ちし申し上げます。
長江賢太郎(けんけん)」
今NHKで『麒麟がくる』を放映中ですが、明智十兵衛の故郷、明智の庄は、中野方と同じく美濃の国の山里です。
若き明智光秀が仕えた主人は美濃の斉藤道三ですが、その道三の主家筋は古くから美濃の国の土岐(とき)に栄えた土岐一族でした。
明智氏も土岐一族の流れから出ています。
長江賢太郎氏ご夫妻はともに土岐で生まれ育ち、人生の旅を生き抜いて立ち上がって来られました。
中野方の長江氏は、現代の美濃の国で「円坐」すなわち「人の生き合う様」という、最も古くて新しい旗印を掲げて再興した、
まさに土岐一族の流れをくむ土着の勢力だと言えるでしょう。
中野方の里を見下ろす長江氏本陣に並び立つ幟(のぼり)には、黒字に染め抜いた「ときのうた」の文字が誇り高くはためいています。
今年、美濃の中野方の谷に三本の円坐影舞の矢が合流します。
この急流に乗って“光陰円坐矢のごとし”、我ら円坐衆にとってはあっという間に過ぎ去る円坐影舞の一年になります。
一の矢は3月27日に始まる「農に生きる円坐・田楽影舞」。
二の矢は4月17日開始の「円坐守人稲妻稽古~円坐という詩・円坐守人という生き方」。
三の矢は三河の国、豊田から流れ込む円坐未二観「なきひとの面影にふれる」で、夏7月17日に合流します。
すべて「7」の日ですね。
円坐守人の仕事は「ことばを辿ること」です。
守人の稽古の肝は、辿るその「ことば」とはいったい何かということです。
ことばを「言の葉」と置いてみます。
これは「言」(ごん)と「葉」を合わせた語です。
「言」とは権現(ごんげん)、荘厳、華厳のように言う時の「ごん」と同音で、言葉にはできない真実の「何か」、形無き世界のことを指しています。
「葉」とは、形無き世界の、ことばにはできぬ「言」を、五感でとらえられる小さな形にして我々の世界にあらわした「言の葉」、
つまり通常の我々の言葉のことです。
「言」という形無き根源がなければそもそも「言の葉」はなく、「言葉の辿り」も成立しません。
守人が言葉を「辿る」ということは、同時に「言」の側からの形無き辿り、呼びかけがあらわになるということだと了解しています。
「辿る」とき、実はそのまま「辿られている」ということ。
それは見えぬもの、分からぬもの、限定のないものから呼びかけられているということ。
そしてそれこそが「他者と本当に出会う」ということの意義だと思います。
言葉を「辿る」ことが同時に「辿られ」「呼びかけられ」る往還となって円坐が熟していきます。
円坐という「とき」満ちて、一期一会の坐衆方がふれ、うたい、あらわになりゆくことを「運び」「道行き」「成り行き」などと言います。
そして、坐衆の方々から面影が立ち上がり、円坐の輪郭があらたまることを「照らし」と呼んでいます。
「照らし」は同時にそのまま我が身が「照らされる」舞台性となりますのでこれを「円坐舞台」と呼びます。
何が照らすのかと問うならば、「言葉に照らされる」「言の葉が照らす」と申し上げます。
ですがその背景は、「言」であり、「呼びかけ」すなわち形無き「言」の「名乗り」が言葉として来迎するということです。
こうして円坐守人にとって言葉は単に記号ではなく、情報でもありません。文字ではなく、音声でもありません。
言葉はそれらを超えて存在する何かです。それなくしては我々が人間ではなくなってしまうような何かです。
僕は、この世界は「言葉」で出来ていると思っています。
同じく、ふたりで生み出す未二観の「15分間」とは「言葉」です。
言葉は「時」そのものであり、言葉は他者との間に生じるもの。
ゆえに言葉とは、この世界で出会った「ふたりの時」のことでしょう。
その「ふたりの時」をこの世界として生きている「そのこと」を「臨場感」「臨在感」と表現してみます。
人生はたとえそれが何歳で終わろうと、臨場感と臨在感にあふれた「15分間」です。
15分間という「全人生」は、「時」の中に鳴り響く「あなたとわたし」という音楽です。
円坐守人稲妻稽古とは、「私」が一度滅んであらたまり(新たに立ち上がり)、他者への「私(渡し)」となる稽古です。
生まれたときに「私」と同時に認識したこの世界、すなわち他者は、ただ客観的に存在しているのではなく、
「この私」に呼びかけ、仕掛け、仕合いたがっているのではないでしょうか。
この世界は他者と私という「ふたりの姿」であらわれ、
だからこそ「ふたりである」ということがすでにそのまま「ひとつである」ことの成就であり、
ゆえにこの世界はふたつに分かれた「ひとつである」に満ちあふれ、
「ひとつである」喜びを歌い上げ、「ひとつである」実りを美濃って(実って)いるのだと思います。
この世界の在り様とは、他者と私がふれあい、打ちあい、唄いあい、鳴り響き合っているという、ただそのこと。
「ふたりのため世界はあるの」という昭和の歌がありましたが、さらに照らされて「ふたりと言う名の世界そのものがあるの」と唄います。
この世界は、あなたとわたしの“ときのうた”です。
中野方円坐守人稲妻稽古 守人 橋本久仁彦
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*円坐という詩・円坐守人という生き方~守人の里、中野方にて円坐守人稲妻稽古
*暮らしの中で円坐守人の仕切りや仕事をする方々のために設けた集中クラス・道場です。
伸びゆく稲穂に見守られながらの守人稽古ですので「稲妻稽古」と名乗ります。
①4月17~19日 ⇒ 中止
②6月19~21日
③8月21~23日
④10月16~18日
*参加費 各回 4万9千円 (研修・宿泊・食事込み)
*通年参加 (4回) 19万円
*募集人員 6名程度
【アクセス】
*電車の場合 : JR恵那駅(名古屋駅より約1時間) ⇒ バス恵那駅→中野方中切
(「中野方中切」バス停まで車でお迎えに上がります。会場まで3分)
*車の場合 : 中央道恵那インター下車 そこから会場まで約25分
<お申込み・お問合せ>
アドレス:megumi_natural@yahoo.co.jp ( 暮らしの宿 ときのうた 長江 )
以下の内容をメールにてお送りください。
1. タイトル(円坐守人稲妻稽古) 2.参加ご希望の日程 3.お名前 4.年齢
5.住所 6.携帯電話番号 7.会場までの交通手段 7.食べられないもの・苦手な食べもの 8.その他 お一言
以上。